北海道の東端、根室市の納沙布岬に立てば、天気の良い日は海の向こうに小さな島影を眼にすることができる。歯舞群島の水晶島や貝殻島で、岬からわずか数キロの距離である。ここから北東へ延びる島々——択捉島、国後島、色丹島、歯舞群島——が、日本では「北方領土」あるいは「北方地域」と呼ばれてきた。
北方領土は、この四つの区域を総称する言葉で、合計面積はおよそ5000平方キロメートルにのぼる。東京都の2倍を超える規模であり、決して小さな無人島の集合ではない。最も大きな択捉島だけで約3200平方キロメートル、次いで国後島が約1500平方キロメートル、色丹島が約250平方キロメートル、歯舞群島が約100平方キロメートルである。なお、ロシア側は同じ島々を「南クリル諸島」と呼んでおり、呼称自体が両国の立場の違いを映している。
日本と四島との関わりは古い。江戸時代にはアイヌの人々が暮らし、松前藩の交易圏として和人の漁場が開かれた。幕末の1855年、日露和親条約の締結によって択捉島と得撫島の間に日露の国境が引かれ、択捉島以南の四島は日本領であることが正式に確認された。2月7日が「北方領土の日」に定められているのは、この条約が調印された日付にちなむ。その後、1875年の樺太千島交換条約では、樺太(サハリン)をロシア領とする代わりに千島列島全域を日本が獲得し、1905年のポーツマス条約で南樺太も日本に復帰した。20世紀前半の日本の地図では、樺太から千島列島、北方四島を経て北海道へと至る一連の領域が日本領として描かれていた時代がある。
大きな転機となったのは、第二次世界大戦の終結である。1945年2月のヤルタ会談では、米英ソの間に千島列島や南樺太のソ連引き渡しを内容とする秘密協定が交わされた。ただし、この協定に四島が千島列島に含まれるという文言はなかった。同年8月、ソ連は日ソ中立条約の不延長を通告したのち対日参戦し、8月末から9月初めにかけて択捉・国後・色丹・歯舞の各島を占領した。終戦時、四島に住み続けていた日本人は、1946年から48年にかけて段階的に本土へ送還され、その数はおよそ1万7000人にのぼるとされる。彼らとその子孫は「元島民」として、今日まで返還運動の中核を担ってきた。
戦後の日露関係は、この領土問題ゆえにきわめて特徴的な姿を示すことになった。両国は1956年に国交を回復したものの、平和条約は今日まで締結されていない。主要な節目を整理すると、次のようになる。
まず1951年のサンフランシスコ平和条約で、日本は千島列島の権利・権原を放棄した。しかしソ連は最終的にこの条約に調印しなかった。さらに、択捉島など四島が放棄対象の「千島列島」に含まれるかどうかについて、日ソの解釈は当初から対立していた。日本は四島を歴史的・法的に日本固有の領土であり千島列島には含まれない、という立場をとっている。
1956年の日ソ共同宣言は、国交回復とともに、平和条約締結後に色丹島と歯舞群島を日本へ引き渡すことで合意したものである(第9条)。ただしその後の冷戦下の国際環境や交渉の経過の中で、日本側は四島一括の返還を求める方針へと移行し、宣言に基づく二島の引き渡しは実現しなかった。宣言にいう「引き渡し」が主権の完全な移譲を意味するのか、主権の留保された返還なのかという解釈の違いも、後年まで両国間の論点として残ることになった。
冷戦終結後の1993年には、日露首脳が平和条約締結に向けた協力と四島の帰属問題の解決を確認する東京宣言を出し、以降も首脳間の対話は途絶えずに続けられた。2016年には両国間で島嶼での共同経済活動を検討する枠組みが合意され、2018年には1956年共同宣言を基礎に平和条約交渉を加速させることで首脳が一致した。ところが2022年、ロシアのウクライナ侵攻を受けて日本が制裁を発動すると、ロシア側は平和条約交渉の停止とビザなし交流の中断を発表し、交渉は事実上の凍結状態に入った。
ここで、両国の立場の違いを改めて確認しておきたい。日本政府は、四島は「歴史的にも法的にも日本固有の領土」であり、帰属が確定しないままソ連に占領されたものだと位置づけている。そのうえで、四島の面積と経済性のバランスを考慮した一括返還を基本方針として掲げてきた。一方、ロシア側は、四島は第二次世界大戦の結果として法的に正当に自国の領土となったものであり、そもそも帰属について争いはない、という立場である。「返還」を前提としないこの考え方が、交渉を難しくしてきた根本要因の一つとされる。
この法的な対立に加えて、四島が持つ実利的な価値も問題を複雑にしている。周辺海域はサンマ、ホタテ、カニ、昆布など水産資源がきわめて豊富で、日本の漁業にとって重要な漁場である。軍事的にも、オホーツク海と太平洋に通じる要衝にあたり、ロシアは近年、択捉島や国後島で部隊の増強や施設の再編を進めるなど、実効支配の強化を続けてきた。
現在、四島はロシア・サハリン州の行政区として管理され、ロシア人を中心に1万人を超える人々が暮らしているとされる。択捉島には民間機が就航する空港が整備され、経済特区として水産加工などの開発も進められてきた。日本側では、かつての島民とその遺族を中心に、北方領土隣接地域の振興を図る特別措置法に基づく各種事業や、1991年から始まった元島民のビザなし訪問交流が行われてきた。根室市の納沙布岬には資料館や展望台が整備され、四島を間近に見ながらその歴史を学べる場所として、多くの訪問者を集めている。
漁業の実務面も見逃せない。1998年に締結された日露漁業暫定協定により、日本の漁船は毎年、四島周辺水域での操業量をロシア側と協議したうえで、入漁料の支払いと引き換えに操業を認められている。平和条約のない両国の間で、経済協力協定という形で実務関係を維持してきた典型例である。このように、領土問題という政治的な対立と、漁業や元島民交流といった実務的な協力が併存しているのが、北方領土をめぐる日露関係の実像といえる。
では、この問題は今後どうなるのか。正直に言えば、現時点で交渉再開の確かな見通しは立っていない。2022年以降の日露関係の冷え込みは、平和条約交渉だけでなく、ビザなし交流や共同経済活動の検討にも影を落としている。一方で、隣国であり、漁業でも深く結びついた両国にとって、この課題が消えることはない。日本国内では、元島民の高齢化が進む中で、交流の継続や、解決のあり方をめぐるさまざまな議論が続けられている。
北方領土問題を考えるとき、大切なのは単に「いつ解決するのか」を問うだけでなく、そもそも何が争点なのかを正確に理解することだろう。歴史的事実と両国の主張、戦後の交渉の経緯、そして島々で今何が起きているのか。こうした基本的な情報を踏まえたうえで初めて、報道で目にする日露首脳会談の動きや、元島民の方々の声にも、より深く向き合えるはずである。択捉・国後・色丹・歯舞の四島が「日本の地図で色分けされた領域」というだけでなく、一つひとつの歴史と暮らしを抱えた場所であること——それを知ることが、この長く続く問題を考える出発点になる。
北方領土とは何か——四島の歴史、現状、そして日露交渉の歩み
Source: HotArticle
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