堺雅人といえば、多くの人が「倍返しだ!」という熱を帯びた怒声か、あるいは『リーガルハイ』の古美門研介が浮かべる棘のある冷笑を思い浮かべるだろう。でも、画面の上で彼が何気なく弁当を頬張りながら台詞を濁してみせたり、考え事をしているときに視線が少しだけ泳いでいる瞬間を、じっくり見たことがあるだろうか。そこには、あの鋭さや迫力とは別の、不思議なほど「抜けている」ような人間臭さがある。
彼の芝居を長く観ていると、一つのことに気づく。それは、堺雅人という俳優が、役を「完璧に演り切る」ことに执着していないように見えるという点だ。『真田丸』での真田昌幸は、戦国の知将としてのしたたかさを発揮する一方で、家臣の前で鼻をすする仕草や、説得の途中で言葉に詰まって目を瞬かせるような、計算外の「ふつうのおじさん」の表情をたびたびのぞかせた。そうした、役としては少し「効率が悪い」振る舞いが、かえって視聴者に「この人物、歴史の教科書の中だけの存在じゃないかもしれない」という納得を与えていた。
彼が早稲田大学の文学部を中退して劇団に身を投じたという経歴はよく知られているが、その蓄積が彼の芝居に学者じみた理屈っぽさを与えているかというと、そうではない。むしろ、言葉に対して誠実すぎるがゆえに、台詞を「読み上げる」のではなく、その場で「考えながら話している」ような独特の間(ま)を生んでいる。彼のセリフ回しは明瞭だが、機械的ではない。文末が少し弱まったり、息継ぎが自然な会話のように乱れたりする。その結果、歴史劇であってもドキュメンタリーの語りであっても、聞き手は「彼が今、本当にその言葉を探している最中なのだ」という錯覚に近い感覚を抱く。
面白いのは、彼が演じる強烈な個性を持つ角色(古美門や半沢など)でさえ、根底にはそうした「一人の人間が必死に言葉と向き合っている」という土台があることだ。毒舌も熱血も、天から降ってきた属性ではなく、彼が日常の中で人間を観察し、言葉の重みを計り続けてきた結果の「出力」に過ぎないように思える。
だからこそ、彼が画面に現れると、私たちはどこか安堵するのかもしれない。完璧に組み上げられた虚構ではなく、ほんの少しの「余白」や「抜け」を抱えたままの人間が、そこに立っているからだ。演技という技術の奥に、彼がずっと守り続けているのは、特別な英雄ではなく、足元の「ふつうの視線」なのだという気がする。
倍返し」の記憶を抜けて:堺雅人という俳優が宿す、日常の余白
Source: HotArticle
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