昼下がり、なんとなくテレビをつけたら、昔のドラマがやっていた。「ちょっとだけ」と思って腰を下ろしたのに、気づけば最後まで見ている。そんな経験は、案外多くの人に覚えがあるのではないだろうか。
ネットフリックスやTVerのおかげで、見たい番組は見たいときに見られる時代になった。それなのに、テレビの再放送は一向に姿を消さない。平日の午後の帯枠、深夜、BSの各チャンネル。番組表を開けば、タイトルの横に小さな「再」の文字が今日も並んでいる。配信全盛のいま、再放送が生き残っているのはなぜか。その理由を掘ってみると、テレビというメディアの意外な強みが見えてくる。
安く流せるから、だけではない
再放送が多い理由として真っ先に挙がるのは、制作費がかからないという事情だ。新規に番組を作れば数千万円単位のコストがかかるところ、再放送なら既存の映像を流すだけで枠が埋まる。視聴率が取りにくい昼間や深夜を支えてきたのは、紛れもなくこの経済合理性だ。
ただ、それだけでは説明がつかない現象がある。再放送が時折、新作を上回る注目を集めるのだ。
記憶に新しいのは2020年。コロナ禍でドラマの撮影が止まり、各局が急きょ再放送や特別編で穴を埋めた時期があった。『半沢直樹』の前作が再放送されて二桁の視聴率を記録し、『逃げるは恥だが役に立つ』は新撮映像を加えた特別編が話題をさらった。NHKの『あまちゃん』のように、何度再放送されても「またやってる」と人が集まってくる番組もある。
つまり再放送は、手抜きの埋め合わせであると同時に、ちゃんとした需要のあるコンテンツなのだ。「また見たい」「前に見逃した」という視聴者の声が、確かに存在する。
配信にはない「出会いかた」
では、同じ番組が配信でも見られるのに、なぜテレビの再放送に人が流れるのか。
答えのひとつは「選ばなくていい」ことだ。配信サービスは自由だが、その自由は選択の負担でもある。何万本もの中から一本を選ぶのは、疲れた平日の夜には意外と重い作業になる。対する再放送は、チャンネルを合わせれば勝手に始まっている。選ぶという一歩が不要なぶん、視聴へのハードルが驚くほど低い。
もうひとつは「偶然」だ。配信では、知っている番組にしかたどり着けない。検索して選ぶ以上、出会いの範囲は自分の関心の内側に限られる。一方、テレビの再放送は「たまたまつけたらやっていた」という出会いを生む。見ようと思っていなかった番組に引き込まれる経験は、能動的な配信ではなかなか起きない。
さらに、決まった時刻に流れるからこそ、視聴が共有体験になる。懐かしいドラマが再放送されると、SNSには実況や思い出話が流れる。「みんなで同じものを同じ時間に見ている」という感覚は、見逃し配信の一週間という猶予とは別物の楽しさだ。
すべての番組が戻ってくるわけではない
ここまで読んで「では、あの番組はなぜ再放送されないのか」と思った人もいるだろう。実は、再放送には目に見えない選別がある。
最大の壁は権利処理だ。主題歌や挿入歌が初回放送の使用しか許諾されていないケースは珍しくなく、楽曲のせいで再放送や配信が難しいドラマは少なくない。出演者との契約も同様で、再放送やネット配信を想定していない古い契約の番組は、権利者をひとりひとりたどって許可を取り直す必要がある。加えて、出演者の不祥事があれば、作品ごとお蔵入りになることもある。
逆に言えば、何度も再放送される番組とは、人気があるだけでなく、権利関係がクリアで、局が「出しやすい」番組でもあるわけだ。
それでも、眠っている番組を呼び覚ます仕組みは育っている。NHKはアーカイブスの公開や視聴者リクエストによる番組発掘の取り組みを進めており、CSの時代劇専門チャンネルやホームドラマチャンネルのように、古い作品を流し続けることを本業にした局もある。配信ともども、「過去の番組に届く道」は昔よりずっと太くなった。
選ぶ時代だからこそ、流れてくる価値
再放送とは、局にとっては過去の資産の有効活用であり、視聴者にとっては懐かしさの装置だ。だがそれだけではなく、番組を時代を超えて生かし続ける仕組みでもある。再放送がなければ、十年前のドラマは語り継がれることなく、静かに棚の奥にしまわれていただろう。
何でも選べる時代だからこそ、選ばなくても目の前に現れてくれる番組には、独特の価値がある。今日の番組表の「再」の文字のとなりに、あなたの記憶に残っているタイトルがあるかもしれない。