テレビについて考えるとき、まず目に浮かぶのは、居間の真ん中に置かれた黒い箱だった時代かもしれない。今は薄型の画面が壁に寄りかかり、点いていなければ存在を忘れてしまう。それでもスイッチを入れると、部屋は急に賑やかになり、誰かの声が流れ、映像が一日の時間を作りはじめる。
かつてテレビは、同じ曜日の同じ時間に同じ番組を家族で見るとための装置だった。夜になればニュースが始まり、週末にはドラマが流れ、季節が変わると特番が並ぶ。視聴者が勝手に選べる時代ではなかったが、その制限こそが、家の中の会話を同じ方向へ向けていた。
いま、動画はスマホの中にある。見たいものを、見たいだけ、好きな速さで楽しめる。テレビは「全部を網羅する箱」ではなく、いくつかのアプリを呼び出す大きな画面に変わった。だからといって、放送そのものが消えたわけではない。むしろ、テレビという言葉には、二つの意味が重なっている。一つは部屋にある画面そのもの。もう一つは、同じ時間を共有するための仕組みだ。
その仕組みが際立つのは、急な荒天や停電、地域の出来事について知るときだろう。スマホの通知が細かく弾ける一方で、画面の向こうから同じ情報が一定の速度で流れ、同じ言葉で整理されていく。信頼できるかは別として、少なくとも「今ここ」をまとめて伝える役割は、まだテレビに残っている。
また、テレビは物語をゆっくり育てる場所でもある。毎週同じ時刻に続きを見る楽しみは、短く区切られた動画では得にくい。登場人物の時間が流れるほど、見ている側の感情も重なっていく。翌朝、誰も詳しく説明していなくても、同じ場面を話題にできる。こうした共有は、小さなものだが、意外に強い。
テレビの未来を語るとき、よく「終わった」という言葉が持ち出される。だが、点けっぱなしの音、食事の合間に顔を上げる画面、家族が同じニュースを聞く時間。そういう残像がまだある限り、テレビは完全に消えない。変わるのは、主役の座であり、役割の中心である。
これからのテレビは、すべての動画を独占する存在ではない。スマホと競うのではなく、大きな画面でしか見せない空気や、同時に流れる時間の価値を担うのかもしれない。点いても点かなくても、どこかで私たちの暮らしに寄り添う装置として、テレビはしばらくここにいる。
テレビは終わったと言われながら、まだ残っている
Source: HotArticle
Original link: https://www.hotarticle24.com/nl3ok1tw