2024年初頭、ある日本の証券会社の営業マンがテレビのワイドショーに出演していた。彼が口にしたのは、いつものように円安ドル高の分析だったが、途中で「もちろん、ダウは今夜も注目ですね」というひと言があった。司会者は自然に頷き、視聴者もそれを受け入れていた。だが、ふと気づく。なぜ日本の一般視聴者が、ニューヨークの工業株30銘柄の平均を、これほど当然のように口にするのだろう。
ダウ平均株侹が世界の経済ニュースで特別な位置を占めるようになったのは、必ずしもその設計の優秀さではない。むしろ、歴史的偶然と、情報が不足していた時代の慣性が作用した結果だ。
1896年、チャールズ・ダウが創設したこの指数は、当初はほんの「気象観測所的な存在」だった。12銘柄から始まり、工業企業中心に選ばれた。当時としては先進的な試みだったが、今日の基準からすれば、サンプル数も少なければ、選考基準も不透明だ。しかし1920年代、ラジオが普及し、米国経済が世界の中心に浮上した時期に、ダウはちょうど存在していた。存在するものが、存在しないものより便利だ。新聞社にとって、読者に伝える数値が一つあることは、何もないことよりずっ楽だった。
重要なのは、ダウが「正しい」指標になったのではなく、「最初にあった」指標だったという点だ。S&P 500が登場したのは1957年。NASDAQ総合指数は1971年だ。ダウの80年以上も前に生まれた指標が、慣性の法則でそのまま残った。医者が聴診器を使い続けるのは、最新のエコーより優れているからではない。手元にあり、患者も理解しているからだ。
ダウの計算方法は、今日から見れば奇妙だ。単純平均だ。つまり、株価の高い企業が指数に与える影響が大きい。Googleの親会社アルファベットが2分割、3分割を繰り返すたびに、ダウ構成銘柄に入るか入らないかで指数の動向が変わる。2024年現在、ウォルマートの1株は約30ドル台だが、UnitedHealth Groupは500ドル台だ。後者の1%変動は、前者の10%変動に相当する。これが「米国経済の平均」として報じられる。理解している人と、していない人の間に、大きな解釈の差が生じる。
それでもダウが消えない理由は、別の場所にある。日本の個人投資家が米国株を買う際、最初に目にするのがダウだ。NHKのニュースで「ダウ平均が史上最高値を更新」と流れると、それは「米国経済は大丈夫だ」という信号に変換される。専門家がS&P 500やラッセル2000を推奨しても、一般の関心を引くのはダウの方が容易い。数字が大きい。歴史がある。直感的だ。これは投資の論理ではなく、メディアの論理、認知の論理だ。
2010年代以降、指数投資が普及し、個人が直接S&P 500に投資できる時代になっても、ダウの優位性は揺るがなかった。むしろ強化された。ブルームバーグのターミナルが専門家のものだった時代は、指標の違いが問題にならなかった。だがスマートフォンで株価を確認する一般市民が増えると、単純で歴史のある数字の需要が増した。専門性より親しみやすさが、情報の優先順位を決定した。
ここ数年、特に顕著なのは、ダウの「心理的閾値」が機能し続けている点だ。4万ドル、という整数が話題になる。専門家に聞けば、4万と3万9987の差は統計的に無意味だ。しかし一般の関心を動かすのは、ちょうどその無意味な閾値なのだ。S&P 500は同じ規模で語られない。なぜなら、そもそも4桁後半の数字を直感的に把握するのが難しいからだ。ダウの大きさが、むしろ情報としての利便性を生んでいる。
批評家は正しい。ダウは時代遅れだ。しかし、多くの人がまだ「時計」というものを知らない時代に、唯一の「時計」だったものが残る。それが正確かどうかは、実は二の次の問題だ。問題なのは、多くの人がその時計を見て行動を合わせているという事実だ。ダウが動くと、世界中のマーケットが緊張する。これは指数の経済学的正しさではなく、社会学的存在感だ。
日本の投資家にとって、ダウ平均株価の動向を無視するのは、実際にリスクだ。たとえそれが最良の指標でなくとも、多くの市場参加者が反応する対象であることは事実だ。ただ、同時にS&P 500やNASDAQの動向も確認し、なぜ差異が生じているのかを理解することが、より深い市場理解につながる。ダウだけを見るのと、ダウを見てダウで終わるのは、全く別のことだ。
深夜、東京の某証券会社のディーリングルームで、若いトレーダーが先輩に言った。「ダウ、 tonight どう思いますか」。先輩は窓の外を見て、「4万突破したら何か言うだろ、社長が」と答えた。そこには、経済指標としてのダウと、組織内のコミュニケーション手段としてのダウが混在していた。正確さではなく、共有されていることの方が重要な場面は、組織社会では少なくない。
ダウ平均株侹がいつまでも使われ続けるかは、技術的な問題ではない。人々が何を「普通」として受け入れるか、という文化の問題だ。そして文化は、論理より慣性で動く。
米国市場の羅針はいつから「普通」の基準になったのか
Source: HotArticle
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