日本の道路を走る車の約3割にトヨタのエンブレムがついている。コンビニの駐車場、会社の通勤ラッシュ、週末のショッピングモール——どこに行ってもトヨタ車に囲まれている。それくらい当たり前の存在になっていると、この会社がいま何を悩み、どこへ向かおうとしているのか、見えなくなってくる。
普通すぎる会社、という強み
トヨタのすごさは、派手さにない。カムリ、カローラ、ヤリス。どれも地味な名前だ。隣の家の人が乗っていても、特に驚かない。会社の公用車に選ばれていても、当たり前だと思われる。その「当たり前感」こそが、トヨタが築き上げた最も強固な資産だ。
世界中で年間1,000万台近い車を売る。工場は日本だけではなく、アメリカ、中国、東南アジア、ヨーロッパに広がる。部品メーカー、販売店、整備工場まで含めれば、トヨタの生態系には数百万人が関わっている。一つの企業がこれだけの経済圏を形成している例は、世界でも珍しい。
この規模感があるからこそ、トヨタは「日本の産業そのもの」と言われる。皇室が使う車もトヨタだし、地方のタクシーもトヨタだ。官庁の公用車も、病院の送迎車も、農家の軽トラも。社会インフラとしての自動車企業——それがトヨタの本質的な姿だ。
「トヨタ方式」は何を残したか
ビジネス書の定番として「トヨタ生産方式」がある。カンバン、ムダの排除、カイゼン。製造業に限らず、サービス業やIT企業まで「トヨタ方式」を参考にしてきた。実際、この考え方は多くの現場で機能した。必要なものを、必要な時に、必要な量だけ作る。当たり前のようで、徹底するのは難しい。トヨタはそれを半世紀以上かけて組織に染み込ませた。
ただし、この方式が輝くのは、需要が予測可能な世界だ。売れる量がだいたい分かっていて、工程を最適化すれば利益が出る。そういう環境では、トヨタのやり方は圧倒的に強い。
問題は、予測が効かない領域に進むときだ。
電動化という荒波
トヨタがいま直面している最大の課題は、電動車へのシフトだ。テスラが急成長し、BYDが中国市場を席巻し、欧州のメーカーが続々とEV専用プラットフォームを発表するなかで、トヨタの立ち位置は明確に異なっている。
トヨタは「多様な選択肢」を掲げる。ハイブリッド、プラグインハイブリッド、電池EV、水素エンジン。すべての技術に投資し、市場が選ぶのを待つ。この姿勢は、一つの技術に絞るリスクを避けるという意味で合理的だ。特に、世界のエネルギー事情が地域によって全く違う現実を考えれば、全地域にEVを押し付けるのが正解ではない、という主張にも説得力がある。
一方で、この姿勢は「遅れ」とも解釈される。テスラやBYDが市場を牽引するなか、トヨタは追いかける側に回っている。株式市場の評価も厳しい。トヨタの時価総額はテスラの何分の一か、という比較がメディアで繰り返される。技術の多様性を主張しても、投資家には「EVへの本気度が足りない」と映る。
2023年末に豊田章男社長(当時)が会長に退き、佐藤恒治新社長のもとでEV戦略の加速が発表された。レクサスブランドをEVの旗艦にする。全固体電池の量産時期を前倒しする。これらは明確な方針転換の合図だ。ただ、すでに市場の主導権を握られている領域に後から入るのは、トヨタにとって不慣れな立場だ。
日本の産業を背負う重さ
トヨタの難しさは、自社の業績だけを気にすればいい企業ではない点にある。
日本の自動車産業に従事する人は約550万人と言われる。その大部分がトヨタのサプライチェーンに直接・間接に関わっている。もしトヨタが「すべてEVにします」と宣言すれば、エンジンやトランスミッションを作ってきた何百もの部品メーカーが行き場を失う。内燃機関に関わる熟練の技術者たちの仕事も消える。
トヨタが技術の多様性を訴える背景には、この産業全体への配慮がある。単に保守的だからではない。社長の椅子に座った人間が、日本の雇用の一角を崩す決断を簡単に下せるわけがない。
ただ、配慮しすぎて結果的に競争力を失えば、全員が沈む。そのジレンマをトヨタは抱え続けている。
これからトヨタに何を見るべきか
トヨタの強さは、危機的な状況で発揮されてきた歴史がある。2008年のリーマンショック後の赤字転落、2010年前後の大規模リコール問題、2011年の東日本大震災によるサプライチェーン崩壊、2020年のコロナ禍による生産停止。そのたびに「トヨタは終わる」と言われ、そのたびに立て直してきた。
復活の鍵は、現場力だった。異常を検知する仕組み、問題を即座に止める文化、改善を続ける組織のしなやかさ。トヨタ生産方式が単なる効率化手法ではなく、危機対応のOSとして機能してきた。
電動化という構造転換は、これまでの危機とは種類が違う。需要が減るのではなく、技術の前提が変わる。エンジンからモーター、ガソリンから電気、機械制御からソフトウェア制御。トヨタが得意としてきた領域の多くが、価値の中心から外れていく可能性がある。
それでも、トヨタが無策でいるとは思えない。全固体電池の開発、ソフトウェア部門の統合、レクサスによるEV先行——地味だが、確実に手は打たれている。問題はスピードと、世界の競合に追いつけるかどうかだ。
自動車の未来と、トヨタの居場所
20年後、道路上を走る車の何割が電気で動いているか。誰にも正確には分からない。テスラが支配する世界かもしれないし、中国メーカーが覇権を握る世界かもしれない。あるいは、ハイブリッドが依然として主流の地域も残っているかもしれない。
トヨタが生き残るためには、どの未来が来ても対応できる力を持つことだ。それはかつての「多様な技術への投資」とは少し違う。すべてに浅く手を出すのではなく、中核となる領域で圧倒的な差をつける。そういう覚悟が問われている。
日本で最も知られた企業の一つとして、トヨタには期待が集まる。ただ期待は、足かせにもなる。あの会社なら大丈夫、という空気は、危機感を鈍らせる。
トヨタが次にどう動くか。それは一社の戦略以上の意味を持つ。日本の製造業がソフトウェア時代に適応できるかどうか、産業の転換期に雇用を守りながら革新できるかどうか——その答えの一部が、トヨタの選択に表れる。